小学校の銅像でお馴染み、二宮尊徳(金次郎)(1787-1856)は
旧足柄上郡栢山村(現在の小田原市栢山)出身の農政家。
その二宮尊徳の生家の隣にあるのが、「二宮尊徳記念館」です。
▼二宮尊徳・回村の像
勉学に励んだ少年期の金次郎像ではなく、農業指導者として活躍した、往年の二宮尊徳の像です。
二宮尊徳記念館の敷地内にあります。
<二宮尊徳記念館>
所在地:神奈川県小田原市栢山2065-1
観覧料:200円
二宮尊徳記念館では、以下のような二宮尊徳にまつわる逸話を、
パネルとアニメーション、人形の展示により、わかりやすく紹介しています。
「積小為大」
▼一家離散のため預けられた伯父宅で、行灯を灯す油の無駄遣いを指摘され、
菜種油を自ら育てて採取し勉学に励んだ話。
▼荒地を開墾して、拾った捨て苗を植えて収穫を増やし、実家を再建した話。
「報徳仕法」
▼節約により、小田原藩家老の家を財政再建する話。
▼栃木県の桜町(現在の二宮町)の復興を託されるも、人間トラブルに悩み、
成田山新勝寺で断食修行後、復興事業がうまく回りだす話。
▼天保の飢饉に見舞われるが、茄子の味により事前に飢饉の発生を察知し、
ひえを植えて飢饉の被害を最小限に食い止める話。
▼その後、幕府の役人となり、弟子たちとともに、各地で数々の農業復興に取り組み、
再建策を仕法雛形としてまとめ、展開する話。
▼尊徳の死後、弟子が札幌の開拓に取り組む話。
不況により、業績下方修正やら人員削減やら、暗いニュースが多いですが、
こんな今だからこそ、財政再建のプロ・二宮尊徳について学び、
「分度・推譲」を以て、苦境を切り抜けるヒントとするのもよいのではないでしょうか。
以下、記念館の周辺の写真です。
二宮尊徳の生家
二宮尊徳記念館の隣にある二宮尊徳生誕の地に、当時の様子を再現しています。
松苗植栽地跡
少年期の金次郎が堤防補強のために松苗を植えた場所。
油菜栽培地跡
1803年、少年期、伯父万兵衛宅で勉学のために必要な灯油を得るため、
油菜の種を植えて7升の菜種を収穫し、
隣村の油屋嘉右衛門の店で1升5合の灯油にかえたという、
「積小為大」の原点ともいえる場所。報徳小学校前、仙了川沿いにあります。
捨苗栽培地跡
1803年の酒匂川大洪水により使えなくなった用水堀を耕して、
翌年捨て苗を植えて籾1俵の収穫を得たと言う、「積小為大」の場所。
以上のエピソードにより、裏の水田は「日本の米づくり100選」指定水田となっています。
場所は、二宮尊徳記念館のそば。
二宮総本家跡
二宮家は室町後期からの名家で、1800年に当主・儀兵衛が亡くなり、一度は絶えたが、
二宮尊徳が19歳のとき、本家再興を目指し、竹を植えて資金として田畑を買い入れ、
1850年頃ついに復興を果たす。現在、石碑はアパートの敷地の片隅にあります。
報徳堀
1840年曽比の仕法を実施中の二宮尊徳が、湿田の地下の冷水を取り除くために掘った排水溝。
これにより、冷害による被害がなくなったといわれています。
善栄寺
【正式名称】如意山善栄寺
【宗派】曹洞宗
1215年巴御前により創建されるが、酒匂川のたびたびの氾濫により荒廃し、
1554年に北条3代北条氏康夫人・瑞渓院により再興され今に至るのです。
二宮尊徳の菩提寺で、下野国今市村にて死去した二宮尊徳の遺髪・遺歯が収められた墓があります。
善栄寺・勉学の像
ちょっと変わった二宮金次郎像。あまりに有名な薪を背負いながら本を読む姿は誤りで、
実際は仕事が終わってから勉強していたようですね。
地図でまとめ。
大きな地図 で表示