伊豆・下田を歩く

2日目は伊豆半島南部の静岡県下田市へ。

▼ペリーロード

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■基本情報

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【区分】自由設定
【地図】GoogleMap
【通過ポイント】
 ▶スタート:伊豆急下田駅
 ✅①宝福寺(お吉記念館)
 ✅②吉田松陰拘禁の跡
 ✅③欠乏所跡
 ✅④安直楼
 ✅⑤ペリー上陸の碑
 ✅⑥開国記念碑@下田公園
 ✅⑦下岡蓮杖碑@下田公園
 ✅⑧長楽寺
 ✅⑨ペリーロード
 ✅⑩了仙寺
 ✅⑪伊豆急下田駅前広場・開国の湯
 ✅⑫玉泉寺
 ✅⑬弁天島
 ✅⑭ハーバーミュージアム@道の駅開国下田みなと
 ▶ゴール:伊豆急下田駅
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■交通アクセスについて

東海バスで松崎~下田(50分、1230円)
※小田原~下田はJR&伊豆急行で120分、2220円


■下田といえば

日米和親条約による開港地(鎖国の終焉)で日本初の米国領事館が設置された地として有名ですが、今新たにNHK大河ドラマ「龍馬伝」にあやかり「下田龍馬伝」と銘打ち、「坂本龍馬飛翔の地」として大々的に売り出しているようです。(下田・宝福寺にて土佐藩主・山内容堂より脱藩の罪を許されたため)
ということで、下田では幕末~明治にかけての日本史をイメージしながら歩きます。(よって、水族館・遊覧船・ロープウェイはパス)
【参考】http://www.shimoda-city.info/ryoma/index.html


■ウォーキングの記録

<スタート:伊豆急下田駅>

<宝福寺(お吉記念館)>

八幡山宝福寺
【入館料】300円(お吉記念館)
【おすすめ】★★
唐人お吉がメインのお寺ですが、今年は「坂本龍馬」推し。
急造の龍馬の木像、福山雅治似の龍馬の看板など、突っ込みどころ満載。
お吉記念館は、勝海舟が土佐藩主に龍馬の脱藩の許しを請うた座敷の再現などが見所です。
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【概要】

八幡山 宝福寺 浄土真宗
永禄二年(1559)権大僧都了善開基
 嘉永七年(安政元年-1854)三月に締結された日米和親条約により下田開港となり、ここ宝福寺は新たに設置された下田奉行都筑駿河守が宿舎とし、仮奉行所となった。ペリーとの間に結ばれた和親条約付録下田条約の交渉の際も応接掛筒井政憲や川路聖謨等の協議が当寺で行われた。文久三年(1863)下田に入港した大鵬丸に乗船していた土佐藩山内容堂が当寺に宿舎をとり、たまたま順動丸で入港してきた勝海舟が訪れて坂本龍馬の脱藩の罪の許しを請い、認められた。
 慶応元年(1865)韮山代官江川英武の命令で、当寺境内において農兵調練が行われた。
 なお、墓地には『下田年中行事』八七巻を書き上げた平井平次郎、ハリスに使えたお吉の墓がある。
 また、安政の東海地震(1854)後の津浪は本堂の床上まで達した。
 下田市
(説明板より)

<吉田松陰拘禁の跡>

【指定】下田市指定史跡
【所在地】静岡県下田市四丁目6-6
幕末・攘夷派の思想家・吉田松陰が渡航未遂で拘禁された寺の跡。現在は下田市中央公民館です。
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【概要】(説明板より)

市指定史跡
吉田松陰拘禁の跡
昭和五十一年五月二十七日指定史跡
 幕末の志士吉田松陰は海外事情を学ぶため鎖国の禁を犯し密航することを決意した。長崎に来航したロシア線への便乗を佐久間象山に勧められ急行したが間に合わず翌嘉永七年(1854)三月再航したペリー艦隊の後を追って弟子金子重輔と下田へ来た。機をうかがい夜中柿崎より小船でペリー艦隊ポーハタン号に漕ぎ着け、渡米を懇請したが、ペリーに拒絶された。壮図(そうと)空しく敗れた松蔭等がいさぎよく自首して拘禁された場所がここ宝光院長命寺(廃寺)であった。さらに平滑の獄に移され、同年四月十一日には江戸伝馬町の獄に送られた。松蔭等が下田に滞在した期間は二十四日と短いものであり、また海外渡航は失敗に終わったがその行動は幕末開港の歴史に欠くことのできない重要な一頁を刻むものであり、後に与えた影響は大きかった。
 下田市

<欠乏所跡>

【指定】下田市指定史跡
【所在地】静岡県下田市3-1-1
▼欠乏所跡
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1854年締結の日米和親条約では、貿易は認められていなかったが、開港地の下田では「欠乏所」にて、薪・水・食料・石炭など欠乏品に限り、入港する外国船に供給することになった。
しかしながら、「必要な品物その他相叶うべきことは双方談判の上取り決め候事」という曖昧な条文のため、貝細工、塗物、瀬戸物、反物など欠乏品以外のものも、欠乏品供給名目で高額で売られており、事実上、開国後初の貿易の場所に。
▼カフェレストラン平野屋
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今は跡地に「カフェレストラン平野屋」が営業。いわゆる古民家カフェ。
シャンソンが流れ、和洋折衷、雰囲気のあるお店です。ビーフカレーがおすすめ。

<安直楼(あんちょくろう)>

【指定】下田市指定文化財
【所在地】静岡県下田市3-5-21
【入館料】200円
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【概要】(説明板より)

安直楼
 米国総領事ハリスに仕えた「お吉」が1882年に、小料理屋を営んだ建物である。
 1857年、恋人鶴松との仲を裂かれて領事館に出仕したお吉は、以後、町の人達から「唐人お吉」とう蔑まれ。酒に浸って、やがて姿を消す。
 年月を経て、当家「安直楼」を開業したが、自ら酒に溺れて数年で店をたたむ。
 幕末開港の陰に咲いた一輪の花、お吉は1890年、稲生沢川に身を投げてそのはかない生涯を閉じた、四十八歳であった。
 なお、当家には。お吉愛用の遺品も保存されている。
 下田市

1928年に十一谷義三郎の小説『唐人お吉』で紹介され、悲劇のヒロインとして有名になった、
斎藤きち(お吉)が1882年に開業した小料理屋跡です。

<ペリー上陸の碑>

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【概要】(説明板より)

ペリー上陸の碑
 嘉永七年(安政元年-1854)再来したペリーと幕府の間でもたれた日米和親条約の交渉過程で開港地として下田港が提示されると、ペリーは調査船を派遣した。下田港が外洋と近接していて安全に容易に近づけること、船の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満たしている点にペリーは満足した。条約締結により即時開港となった下田に、ペリー艦隊が次々と入港した。そして、ペリー艦隊の乗組員が上陸したのが、下田公園下の鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として、「ペリー上陸の碑」が建てられた。
 この記念碑のペリー像は、故村田徳次郎氏の作品であり、記念碑の前の錨は、アメリカ海軍から寄贈されたものである。
 下田市

絶好の記念撮影ポイント。
私が行ったときは、ツーリングのバイク軍団が、ここで写真を撮っていました。

<開国記念碑>

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【概要】(説明板より)

開国記念碑
 嘉永七年(安政元年-1854)日米和親条約の締結により、日本最初の開港場となったここ下田に、ペリー艦隊が入港し、
同3年には米国総領事ハリスが着任し、日米友好の礎が築かれた。昭和29年(1954)に開港百年を記念して、開国記念碑が建てられた。この記念碑にはペリーとハリスのレリーフ像と二人の言葉が刻まれている。
  「余は平和の使節として此の地に来れり」(ペリー)
  「私の使命はあらゆる点で友好的なものであった」(ハリス)
 ペリーの言葉を選んだのは戦後アメリカ連合国軍最高司令官だったマッカーサー元帥。ハリスの言葉はウイリアム・J・シーボルト。「開国記念の碑」の揮毫は、戦後の日米時代をきりひらいた吉田茂総理。碑の設計と、ペリー、ハリスのレリーフの製作者は、日展審査員をつとめた西伊豆町仁科の彫刻家、堤達男氏である。
 下田市

昭和28年に下田開港100年を記念して建立。ペリー提督とハリス領事のレリーフが埋め込まれています。

<下岡蓮杖碑>

下田生まれで(上野彦馬と並ぶ)日本の写真師の祖である下岡蓮杖(1823-1914)の碑&胸像。
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◆略歴◆
下岡蓮杖は下田中原町の生まれ。少年期に江戸に出て狩野菫川の門下で狩野派の絵を学ぶも、ある日薩摩藩邸にて見た銀板写真に驚き、写真術を学ぶことを決心。1853年に下田・玉泉寺に領事館が設置されると、タウンゼント・ハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンに接触し、写真の手ほどきを受ける。さらに、領事館閉鎖とともに横浜に出て、米国人写真師ウンシンと知り合い写真機を譲り受ける。そして、試行錯誤の末、湿版写真術を習得。1862年に横浜野毛、ついで、弁天町に写真館を開業した。また、蓮杖門下に優れた写真家を輩出した。写真以外にも牛乳搾取業、京浜間乗合馬車開設、石版印刷法の祖として、近代化に貢献。

<長楽寺>

【指定】下田市指定史跡
【正式名称】大浦山長楽寺
【宗派】真言宗
【歴史】日露和親条約締結の場所
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【概要】(説明板より)

市指定史跡
大浦山 長楽寺 真言宗
弘治元年(1555)中興開山尊有により再興
 安政元年(1854)十二月、当寺において日本全権筒井政憲・川路聖謨とロシア使節海軍中将プチャーチンとの数回におよぶ交渉の結果、日露和親条約(日露通好条約)が締結された。これによって国境が定まり、択捉島と得撫(ウルップ)島の間に境界を置き、択捉・国後・歯舞・色丹は日本領に、得撫島以北の千島列島はロシアに属し、樺太については日露両国人の雑居を認めることになった。
 また、同二年(1855)一月、米国使節アダムス中佐と日本側応接掛井戸対島守等の間で、先に締結された日米和親条約批准書の交換が当寺において行われた。
 参道左側の高台にあった梵鐘はよく響き、江戸時代から「時の鐘」として下田港に停泊中の船舶や町民に親しまれていたが、戦時中に供出された。現在の鐘楼と梵鐘は昭和五一年に再建されたものである。
 なお、伊豆横道三十三観音の第二十三番であった宝光院が廃寺となり、聖観音立像は当寺に移され、厨子に安置されている。
 下田市

<ペリーロード>

下田に上陸したペリー提督ら300人が、日米和親条約下田条約締結のため、
了仙寺に向かい行進した道。おしゃれな街灯、古民家カフェなど趣きがあります。
下田といえば、やっぱりココ!
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<了仙寺>

【指定】国指定史跡
【URL】http://www.izu.co.jp/~ryosenji/
【正式名】法順山了仙寺
【宗派】日蓮宗
【歴史】日米和親条約の細則・下田条約締結の場所
【入館料】500円(黒船博物館)
【おすすめ】★★★
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【概要】(説明板より)

国指定史跡
法順山 了仙寺 日蓮宗
寛永十二年(1635)創建 開山日朝
 第二代下田奉行今村伝四郎正長が開基大檀那として創建。初代奉行父彦兵衛重長の跡を継いだ伝四郎は、江戸への上り下りの廻船の検問を行った御番書の整備、検問の補助にあたった廻船問屋の創設、下田の町を波浪から守った武ヶ浜波除の築造等下田繁栄の基礎を築いた名奉行として知られる。
 本道南側の墓域の一郭に江戸時代前期の優れた五輪塔三基がある。第二代下田奉行今村伝四郎正長・第四代伝三郎正成・第五代彦兵衛正信の今村家三代の墓である(下田市指定史跡)。並んでいる小さな墓は伝四郎正長の妻の墓と伝えられている。
 嘉永七年(安政元年-1854)三月、神奈川において日米和親条約が締結されて下田が開港場となると、ペリー艦隊は次々と入港してきた。ここ了仙寺は、上陸したペリー一行の応接所となり、同年五月に日本側全権林大学頭等とペリーとの間に和親条約付録下田条約が当寺において調印された。これにより、了仙寺は玉泉寺と共に米人休息所となった。
 なお、寺の背後の海蝕洞窟から人骨・玉類・金銅製腕輪や耳飾り・須恵器土師器などが出土した。南伊豆の特色ともいえる貴重な洞窟古墳である。
 下田市

併設の黒船博物館は「了仙寺関連文書」「黒船・異文化交流関連史料」「秘仏コレクション」の3本立て。
おすすめは、「黒船・異文化交流関連史料」。外国語に触れた日本人の様子や、
当時の日本人画家の描いた様々なペリーの肖像画(錦絵)等があり、なかなか楽しめます。
※「秘仏コレクション」は和尚の道楽?

<伊豆急下田駅前広場・開国の湯>

駅前にある足湯です。ちょっと一休みポイント。
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<玉泉寺>

【指定】国指定史跡
【正式名】瑞龍山玉泉寺
【宗派】曹洞宗
【歴史】初代アメリカ総領事館跡
【入館料】400円(ハリス記念館)
【おすすめ】★★★
▼本堂
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【概要】(説明板より)

国指定史跡
瑞龍山 玉泉寺 曹洞宗
天正年間(1573~91)一嶺俊栄創立
 嘉永七年(安政元年-1854)三月、日米和親条約により下田が開港され、同年五月和親条約付録下田条約が結ばれると、玉泉寺には米人休息所・埋葬所に指定された。
 安政三年(1856)七月、タウンゼント・ハリスが米国総領事として下田に着任した。八月五日、日本最初の領事館がここ玉泉寺に開設され、翌日星条旗が庭高く翻った。ハリスはオランダ人通訳ヒュースケン・中国人召仕とともにここに駐在した。
 ハリスは同四年五月、下田奉行との間に、日米金銀貨は同種同量で交換すること、米側に領事裁判権を認めることなどを内容とした下田協約を結んだ。さらに、江戸へ出府して通商開始の努力を続け、同五年六月ポーハタン号艦上で日米修好通商条約の調印に成功した。同内容の条約が蘭・露・英・仏との間にも結ばれた。
 通商条約により横浜開港が決まり、安政六年(1859)五月領事館は閉鎖され、ハリスはその使命を終えて下田を去り、江戸麻布善福寺と移った。
 なお、境内には米人の墓五基、露人の墓四基が建てられている。
 下田市

下田開港により日本で最初のアメリカ総領事館が置かれた寺です。
ここにきたら、とりあえず伊豆の牛乳を飲んでおきましょう。
▼牛乳の碑
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牛乳の碑
 
農林大臣 河野一郎
安政五年(一八五八年)2月米国総領事タウンゼントハリスは、政務多忙を極め病床にありました。侍女お吉は、ハリスが牛乳を欲するのを知り、禁を犯して下田近在から、和牛の乳を集めハリスに毎日与えたということです。その時ハリスが十五日間飲んだ九合八勺の牛乳の代価が一両三分八十八文之は、米三俵分に相当したといいますから当時牛乳が如何に高価で貴重なものであったかが分かります。
このことが日本に於ける牛乳売買の初めといわれます。爾来百余年牛乳は現在重要な国民栄養食糧として年生産一千余万石に達し酪農事業は重要な国策となりました。 乳業の発達は国富の充実と共に前途益々津々たるものがあります。
(碑文より)

<弁天島>

吉田松陰らが、弁天島に潜み、小船でポーハタン号に漕ぎ出したそう。
きれいに整備された公園となっています。
▼踏海の朝
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踏海(海外渡航)を志す吉田松陰は金子重輔と共に黒船を追って下田に入った。
機会を伺い米艦へ向い、踏海を嘆願したがペリーに拒否され自首、江戸へ檻送された。
かくすればかくものなると知りながら
やむにやまれぬ大和魂
(説明板より)


弁天島~まどが浜海遊公園~道の駅・開国下田に掛けて遊歩道が整備されていました。

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<遊覧船・サスケハナ>

ペリーの黒船を再現した遊覧船。乗りませんでしたが、外観だけパチリ。
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<道の駅・開国下田みなと>

【所在地】静岡県下田市外ヶ岡1-1
【入館料】500円(ハーバーミュージアム)
【URL】http://www.kaikokushimodaminato.co.jp/
【おすすめ】★★★
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ペリーの錦絵が目印の道の駅。道の駅は全体的に混雑していますが、そんな中で、穴場スポットが4Fハーバーミュージアムです。
「原始・古代の下田」「中世の下田」「近世の下田」「下田開港」「近現代の下田」について、パネル展示、自動音声、CGで再現しており、マルチメディアとしての出来、わかりやすさという点でピカイチ。なかでも、下田が歴史の中心だった時代=「下田開港」のコーナーでは、ペリー来航、プチャーチン来航、ハリス下田着任などについて、ドラマ仕立てでCGで紹介されており、一見の価値あり。

<ゴール:伊豆急下田駅>


■コース

コースは、以下の通り。

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