保土ケ谷を歩く

JR東日本主催の「駅からハイキング」(イベントコース)で
神奈川県横浜市保土ケ谷区を歩いてきました。
▼保土ヶ谷駅前のマンホール
20110206_01.jpg

■基本情報

+++++++++++++++++++++++++
【主催】JR東日本・駅からハイキング(イベントコース)
【タイトル】東海道保土ヶ谷宿 駅伝花の2区・松の9区「権太坂」を歩く
【距離】約8km
【分類】文化歴史、ほとんど平坦
【地図】 GoogleMap
【通過ポイント】
 ▶スタート:JR保土ヶ谷駅
 ✅①本陣跡
 ✅②松並木プロムナード
 ✅③国道1号権太坂
 ✅④境木地蔵尊
 ✅⑤旧東海道権太坂
 ✅⑥今井川プロムナード
 ✅⑦助郷会所跡
 ▶ゴール:JR保土ヶ谷駅
+++++++++++++++++++++++++


■保土ケ谷といえば

・江戸時代、東海道の往来で栄えた宿場町
・箱根駅伝の見どころ・権太坂
・保土ケ谷駅の駅ビルはアーバン


■ウォーキングの記録

<スタート:JR保土ケ谷駅>

20110206_02.jpg
改札を出て東口方面の駅通路にて受付。
バッジとマップをいただき、黄緑のカードリーダーボックスに「会員証」をピッと。
今回のウォーキングのテーマは「東海道保土ケ谷宿」と「箱根駅伝コース」です。

<東口バスターミナル>

20110206_03.jpg

――0.5km歩く――

 ①<本陣跡>

【所在地】神奈川県横浜市保土ケ谷町1-68
本陣は、江戸時代、参勤交代の大名や幕府の役人、公家などが宿泊した宿泊施設。
ここには、保土ケ谷宿唯一の本陣・苅部本陣がありました。
20110206_04.jpg
石碑には以下のとおり書いてあります。

    保土ヶ谷宿本陣跡
     (1601~1870)
   江戸時代に幕府が諸大名に参勤交代をさせる   
   ため東海道五十三次の宿場毎に本陣を置いた
   もの横浜開港東京遷都の頃までありました
  1965   横浜市長 飛鳥田一雄記

【概要】


 
歴史の道 本陣跡
 慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より
「伝馬朱印状」(てんましゅいんじょう)が「ほとかや」(保土ケ谷町)あてに
出されたことにより、保土ケ谷宿が成立しました。
 東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。
保土ケ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則(かるべぶぜんのかみやすのり)
の子孫といわれる苅部家が代々つとめています。
同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ケ谷宿におけるもっとも有力な家で、
安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫(せいべええっぽ)
が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政につくしました。
明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、現在に至っています。
 本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。
保土ケ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3軒の脇本陣がありました。
平成15年3月 保土ケ谷区役所
(史跡案内板より)

<脇本陣(水屋)跡>

現在の保土ケ谷消防署本陣消防出張所のあたり。
20110206_05.jpg
【概要】


 
歴史の道 脇本陣(水屋)跡
 
天保年間の水屋(与右衛門)の規模
建坪128坪(約423㎡)間口8間(約14.5m)奥行き16間(約29m)室数14 玄関門構付
 
(標柱より)
 

<旅籠屋(本金子屋)跡>

【所在地】神奈川県横浜市保土ケ谷区保土ケ谷町1-84
旅籠屋は江戸時代の一般旅人向け宿泊施設で、天保年間には69軒ほど存在したそうです。
ここ旅籠屋(本金子屋)跡は、「保土ケ谷宿・まちかど博物館」として外観のみ公開されており、
現在も所有者の方がお住まいになっています。
20110206_06.jpg
【概要】


 
歴史の道 旅籠屋(本金子屋)跡
 
天保年間の本金子屋(伝左衛門)の規模
建坪79坪(約261㎡)間口7間(約12.7m)奥行き11間半(約20.9m)室数13
(標柱より)
 

 
ほ・まちかど博物館 旅籠 本金子屋跡
旅籠の面影を残す建造物
 
■本金子屋の歴史■
 本金子屋は、江戸時代に旅籠として栄えました。
明治二年に建替えられた現在の建物も、東海道沿いに建つ旅籠の面影を残しています。
 過去に国道1号が7mほど拡幅される前は、現在の母屋の前に大名門と前庭がありました。
現在、当時の大名門は建物正面の外壁として使われています。
 敷地内には本格的な日本庭園(非公開)があります。
これは戦後に作られたものですが、四国の石で作られた燈籠や、
大正天皇がお忍びでたびをしたときにお茶を飲むのに休まれたといわれている石などがあります。
(案内板より)
 

<外川神社(とがわじんじゃ)>

【所在地】神奈川県横浜市保土ケ谷区瀬戸ケ谷町194
20110206_07.jpg
【概要】


 
外川神社の由来
 外川神社は、保土ケ谷宿内の羽州湯殿山の講中の先達であった清宮與一が、
湯殿・月山・羽黒の三山の霊場を参拝し、
明治二年この地に羽黒山麓の外川仙人大権限(「現」)の分霊を勧請したもので、
以来、小児の虫封じ、航海安全に利益があるとされてまいりました。
 明治初年、神仏分離令の発布によつて祭神を日本武尊とし、外川神社と改称しました。
 そして平成六年九月十三日、今井川河川改修工事にともない無格社外川神社は
宗教法人として認可され現在にいたりました。
 
平成九年十二月吉日
 
(立札より)

外川神社&保土ケ谷町会館前に、お休み処が設けられていました。
テントには、「保土ケ谷町自治会」の文字。100円でけんちん汁が振る舞われていました。
今井川を渡ってすぐそばに、一里塚跡がありました。

<一里塚跡・上方見附跡>

20110206_08.jpg
【概要】


 
歴史の道・一里塚跡
 
街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。
一里塚は、街道の両側に土盛した小山を作り、
その上に遠くからでも目立つように榎など木々が植えられていました。
この付近にあった一里塚は、江戸から八番目のものです。
 
 
上方見附跡(かみがたみつけあと)
 
保土ケ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、
保土ケ谷区郷土史によれば外川神社の前にあったとされています。
見附は、土盛りをした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、
「土居」(どい)とも呼ばれています。
この上方見附から江戸方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び
「宿内」(しゅくうち)と呼ばれています。
 
平成15年3月 保土ケ谷区役所
 
(史跡案内板より)
 

②<松並木プロムナード>

東海道の松並木復元事業により植えられた松並木。
まだまだ、細い木ですが、いつの時代か、三保の松原のように大きな木になるかも知れません。
20110206_09.jpg


 
東海道保土ケ谷宿の松並木と一里塚
 
<保土ケ谷宿の松並木>
 
 我が国に於ける街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、
全国的な規模で取り組まれるようになったのは江戸時代に入ってからです。
慶長9年(1604)、幕府は諸国の街道に並木を植えるように命じました。
以来、夏は木陰を作り、冬は風雪を防ぎ、植樹帯は旅人の休息場所となることから、
官民挙げて大切に保護されました。
 保土ケ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3kmあまり続き、
広重や北斎などの浮世絵にも度々描かれました。
その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されてきましたが、
時代とともに減り続け、現在は旧東海道の権太坂付近にわずかな名残
を留めるだけになってしまいました。
 このたびの松並木復元事業では、「上方の松原」と呼ばれていた
今井川に沿った約300mの区間に松などの木々数十本を植えました。
 
<保土ケ谷宿の一里塚>
 
 松並木と同時期、街道の距離の目安として、
日本橋を起点に一里(約4km)ごとに築かれたのが一里塚です。
一里塚は、街道の両側に土を盛って小山を作り、
その上には遠くからでも目立つように榎や木々が植えられていました。
 保土ケ谷宿の一里塚は日本橋から八番目に位置し、
この附近(現在の車道上)にありましたが、
古くから南側の一基の存在しか伝わっていません。
その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。
 この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような
「五間(9m)四方」に相当する大きさの塚を築くことができませんでしたが、
柄の上には昔のように榎を植え、松並木と併せて宿場時代の再現につとめました。
 
平成19年3月 東海道保土ケ谷宿松並木プロムナード実行委員会 横浜市保土ケ谷区役所
 
(案内板より)

――1.5km歩く――

③<国道1号権太坂>

国道1号権太坂は、箱根駅伝の花の2区、松の9区で有名なポイント。
中でも2区は箱根駅伝で2番目に長い区間で、各校エース級を揃える区間。
スタートから最初の上り勾配となる権太坂は、毎年最初のドラマが起こる場所です。
▼権太坂上
20110206_10.jpg

――権太坂上の権太坂スクエア前でウォーキングコースは右折――

<境木立場跡>

東海道の旅の休息所・茶屋の跡です。周囲には建物が多く、当時の素晴らしい眺望はありません。
20110206_11.jpg


 
歴史の道 境木立場跡(さかいぎたてばあと)
立場茶屋(たてばぢゃや)
宿場と宿場の間に、馬子(まご)や人足(にんそく)の休息のためなどに
設けられたのが立場です。
中でもここ、境木の立場は権太坂(ごんたざか)、焼餅坂(やきもちざか)、
信濃坂(しなのざか)と難所が続く中、
見晴らしの良い高台で西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、
旅人が必ず足を止める名所でした。
また、茶屋で出す「牡丹餅」(ぼたもち)は境木立場の名物として
広く知られており、たいへん賑わったということです。
「保土ケ谷区郷土史」(昭和13年刊)によると、
こうした境木の立場茶屋のなかでも特に若林(わかばやし)家には
明治中期まで黒塗りの馬乗門(ばじょうもん)や本陣さながらの構え
の建物があったとされ、参勤交代(さんきんこうたい)の大名までもが
利用していたと伝えられています。
平成16年3月 保土ヶ谷区役所
 
(史跡案内板より)

④<境木地蔵尊>[Check Point]

【所在地】神奈川県横浜市保土ケ谷区境木本町2-17
【指定】横浜市地域史跡
20110206_12.jpg


 
保土ヶ谷観光名所・境木地蔵由来
 
 ここ境木は武蔵相模の国境で江戸時代にはそのしるしが立てられていて
境木の地名はそこからおきたといわれています
 
 また境木は東海道中の難所であった権太坂を登りきった所にあり
名産の牡丹餅を食べながら旅の疲れを休めることができて
大変賑わったとも伝えられています
境木の名を有名にしたものは地蔵で江戸の人達にも崇敬され
今でも境内に寄附された燈籠が残っています
 
 なおこの地蔵には次のような珍しい伝承があります 
 
即ちいつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が
土地の漁師の夢枕にたち
「俺は江戸の方へ行きたい運んでくれたらこの海を守ろう」
と告たので漁師達が江戸へ運ぶ途中
此の境木で動かなくなった為村人達は地蔵を引き取り
お堂を建てて安置したところ
それからは村が繁昌したということです
 
 地蔵堂の鐘は明治になって野毛山の時の鐘に使用され
横浜市民に大正の大震災まで親しまれました
 
平成元年十月四日 岩間町見光寺
 
(石碑より)

20110206_13.jpg
保土ケ谷宿の物産の販売、地元ガイドボランティアによる歴史ガイドが実施されていました。

――境木地蔵尊で折り返して1.4km歩く――

⑤<旧東海道権太坂>

【指定】横浜市地域史跡
東海道五十三次の江戸から上方に向かう最初の難所といわれた坂です。
▼権太坂を下る
20110206_14.jpg
天候が良ければ坂の上から富士山が望めるビューポイントということでしたが、
曇り空で見えませんでした・・・残念。
▼権太坂小学校前
20110206_15.jpg


 
歴史の道 権太坂
 権太坂はかつては今より勾配もきつい相当な急坂で
上方へ上る旅人が初めて出会う難所として知られていました。
松並木の続く景色も良かったため多くの浮世絵にも描かれています。
しかし、明治17年(1884年)新道開通や明治20年(1887年)の鉄道開通により
旧道は通行量も減って道幅も狭くなりました。
権太坂にはもともと人家もほとんどなかったため、
昭和30年代に本格的に道が改修されて宅地開発が進むまで
往時のおもかげを残していました。
 
権太坂の名前の由来に2つの説?
 
その1「老人の返事」説
 
ある時、旅人がこの坂で近くにいたお年寄りに坂の名をたずねたところ、
自分の名前を聞かれたと思い込み、
「ごんたでございます」と答え、
その名が坂の名になったということです。
 
その2「本当は権左坂(ごんざざか)」説
 
昔、権左衛門(ごんざえもん)という人が代官の指図(さしず)により
ひらいてできた坂道を、その名をとって「権左坂」と名付けたものが、
いつのころか「権太坂」と呼ばれるようになったということです。
 
さて、あなたはどちらを信じますか?
 
(調査協力/権太坂小学校 平成15年度卒業生)
 
平成16年3月 保土ケ谷区役所
(史跡案内板より)
 

▼権太坂の標柱
20110206_16.jpg
▼権太坂改修記念碑
20110206_17.jpg
「旧東海道権太坂 改修記念碑 横浜市長平沼亮三書」

――0.8km歩く――

⑥<今井川プロムナード>

20110206_18.jpg

――1.6km歩く――

⑦<助郷会所跡(北川製粉所前)>

助郷会所跡(北川製粉所前)のスペースが休憩所になっていました。
20110206_19.jpg


 
歴史の道 助郷会所跡
助郷村々の人馬を手配するため設けられたのが助郷会所です。
各助郷村の代表はここに出勤して問屋場の指示に対応するとともに、
村が手配した人馬が不公平な割り当てを受けたり、
不正に使用されないよう監視する場所でもありました。
(標柱より)

▼宿場模型の展示
20110206_20.jpg
「小学六年生と地域の人が作った江戸時代の保土ケ谷宿の家並み」
「総合学習」の授業で作成したものでしょうか?
権太坂の案内板もそうですが、小学生時代に調べたり、作ったものが、
その後も地域に何らかの形で残っていくのって、ちょっと羨ましいですね。
▼休憩所
20110206_21.jpg
甘酒の提供と、300円でそばが振舞われていました。
助郷会所跡でちょっぴりプレゼントをいただきました。
「東海道五拾三次の絵と手ぬぐい」(読売新聞を購読しているといただけるもの)。
使い方はとっさには思いつきませんが、どこかで使えそうです。
ちなみに、なぜ読売新聞さんかといえば、「ワイワイ(Y2)サポートプロジェクト」と題して、
横浜市と読売センターが業務提携している事情のようですねー。
▼手ぬぐい(折りたたんだ状態)
20110206_23.jpg

――ラスト0.3km歩く――

<ゴール:JR保土ケ谷駅・西口>

20110206_22.jpg
ゴールはJR保土ケ谷駅・西口の階段下。
ちょっと肌寒かったですが、適度な距離でいいウォーキングでした。

■コースマップ

本日のコースは以下の通りです。

より大きな地図で 保土ケ谷 を表示

■まとめ

今回、いちばん、印象的だったのが、係員の方々。
ウォーキングイベントは、受付、路上の安全確保など、ボランティアの方々の協力で成立しています。
今回の保土ケ谷のウォーキングでは、交通量に対して道が狭い箇所が多いこともありウォーカーの誘導、
また、休憩所の運営、歴史ガイドなど、非常に多くの方々が業務にあたられていました。
休日を返上し地域をあげて私たちウォーカーの為に動いていただき、保土ケ谷の方に大変感謝です!!