曽我を歩く

JR東海主催の「さわやかウォーキング」で、神奈川県小田原市の曽我地区を歩いてきました。

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■基本情報

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【主催】JR東海・さわやかウォーキング
【タイトル】<新春ウォーク>曽我の里梅林ウォーキング
【距離】約7km
【分類】富士山・花を楽しむ、一般向け
【地図】GoogleMap
【通過ポイント】
 ▶スタート:JR下曽我駅
 ✅①宗我神社
 ✅②城前寺
 ✅③澄禅窟
 ✅④曽我裕信宝篋印塔
 ✅⑤六本松跡
 ✅⑥見晴台
 ✅⑦別所梅林
 ✅⑧原梅林
 ▶ゴール:JR下曽我駅
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■交通アクセス

JR東海道線・国府津駅からJR御殿場線乗り換えで1駅。
or. 小田急線・新松田駅からJR御殿場線・松田駅乗換えで3駅。
※単線のため、1時間に1本です。

■曽我といえば

・日本三大仇討ち「曽我物語」の曽我兄弟が育った地
・曽我梅林(梅まつり)

■ウォーキングの記録

<スタート:JR下曽我駅>

【所在地】神奈川県小田原市曽我原
▼下曽我駅
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今回のウォーキングのテーマは「曽我物語」と「曽我梅林」です。
快晴により、富士山が綺麗というのも見どころ。
▼張り紙
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さわやかウォーキングは、ゴール時にスタンプを受けるルールなのですが、今回は受付時にスタンプ。
バッジとマップを受け取りスタートです。
▼バッジ
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<大鳥居>

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<尾崎一雄文学碑>

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文学碑建立の趣旨
 尾崎一雄先生は、曽我谷津に在住し、作家として日本独特の文学である私小説において幾多の優れた作品を発表し、第5回芥川賞を始め数々の文学賞を受賞されるとともに、昭和53年に文化勲章を受章されました。これは、先生の栄誉であると同時に、本市にとっても大きな誇りでもあります。
 また、小田原文話会の顧問として後進の指導に当たり地域に根ざした本市文化の向上に寄与されました。昭和55年11月20日の市制40周年記念式典において、先生を特別表彰するとともに、文学碑を建立しその功績を永く顕彰するものです。
(案内板より)

①<宗我神社>

【所在地】神奈川県小田原市曽我谷津386
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宗我神社
祭神
宗我都比古命(そがつひこのみこと)
宗我都比女命(そがつひめのみこと)
 宗我神社は明治28年の神社上書に依れば、「長元々年(1028)に奈良県橿原(かしはら)市曽我町の武内大社宗我都比古神社の神主だった宗我保慶が祖先の宗我都比古命の墓を訪い、同時に武内宿弥及び宗我都比古命を鎮祭して・・・」が当社の創建と決めています。
 足柄上郡旧上曽我村及び曽我大沢と、下郡の下曽我に属する旧四村を併せて、古くは曽我郷六ヶ村と呼ばれました。その総鎮守が、宗我神社でした。小田原北条氏の時代から小田原城鬼門擁護の神社とされていました。江戸時代には小沢明神の名で総崇され、明治に入って六ヶ村それぞれの鎮守をこの社に会示し、新たに宗我神社となりました。現在の社殿は大正12年(1923)関東大震災後に復興したものです。
(案内板より)

②<城前寺>

【所在地】神奈川県小田原市曽我谷津592
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城前寺(浄土宗稲荷山祐信院)
 曽我兄弟の菩提寺で兄弟の育った曽我城の大手前にあるのでこの名がある。
 建久4年(1193)富士の裾野で兄弟が父の仇、工藤祐経(すけつね)を討った後、叔父の宇佐美禅師は、その遺骨を携え此の地に来て庵を結び、兄弟の菩提を弔ったのがこの寺の始まりと伝えられえる。
 なを、この討入りの時、兄弟は暗夜であったため傘を燃やして松明としたので、仇討ちの日に当る5月28日には、この古事にならい境内で傘を焼いて兄弟の霊を慰める傘焼きまつりが行われるが類例の少ない祭であるので有名である。
 境内には、十郎・五郎・父祐信・母満江御前の供養墓や十郎が大磯の虎御前をしのび腰を掛け、笛を鳴らした忍石、坪内逍遥筆で歌舞伎俳優連中寄附の兄弟の記念碑等のほか各種ゆかりの品がある。
 なを、4人の墓の建つ墳丘は、曽我城の土塁跡である。
(案内板より)

▼曽我兄弟発願之像
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▼曽我兄弟遺蹟碑
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③<澄禅窟>

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澄禅窟(ちょうぜんくつ)と澄禅和尚供養塔
 澄禅(1651-1721)は浄土宗の僧で、座禅に徹しながら阿弥陀の名号を唱えることを実践した。曽我一帯を巡って修行したのは三六、七歳の頃で、晩年は京都大原の古知谷(こちだに)で修行しその地で没している。
 寺院を拠点とする念仏を排して各地を転々とし、岩窟にこもって座禅することが多かったという。ここ澄禅窟は本来は横穴式古墳であったと思われるが、この中で修行しながら朝夕に富士を拝していたと伝えられる。澄禅窟入り口の、供養塔と自然石名号碑の二基は、ともに、その没後、土地の人々が遺徳を偲んで建てたものであろう。澄禅ゆかりの宝筐印塔と、一針一拝の二十五条袈裟とが曽我谷津の法輪寺にある。
小田原市教育委員会
(案内板より)

――― 登り坂が続きます ―――

④<曽我裕信宝篋印塔>

【所在地】小田原市曽我谷津1159
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小田原市指定文化財(昭和三十六年三月三十日指定)
曽我祐信宝筐印塔
(所在地)小田原市曽我谷津1159
(所有者)神保 厚
 昔から土地の人々に「祐信さんの供養塔」と呼ばれています。銘を持たないので、造塔の意図、年次、造立者、大工名など、一切不明ですが、死者往生を本願としたものと思われます。
 塔の走行は220センチ(基壇を除く)に達し、基壇の植えに蓮座、基礎、塔身、笠、相輪の順で積み上げられています。
 関東における基本的な様式を備えた大宝筐印塔で、県下においても屈指の貴重なものです。
小田原市教育委員会
(案内板より)

⑤<六本松跡>

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六本松跡
 古代千代台地は師長国の府中で、この地方の文化の中心地であったので、西からの旅人は皆ここに寄って、この道を、目指す阪東や奥羽へと向かったと推定(弓削道鏡等)される。
 その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、上洛や富士の巻狩などにこの道を通り、いまも鎌倉山、将軍山また豪族中村氏がお出迎えした所を「大迎え」などの地名が残っている。
 また、この地の豪族が鎌倉にはせ参じた鎌倉街道でもあり、阪東三十三観音の五番勝福寺から六番長谷寺に詣る巡礼道でもある。
 戦国乱世のころ、京の聖護院准后道興は「答えする 人こそなけれ 足曳の 山彦山は荒らし吹くなり」。を読み、降って元禄のころ 松尾芭蕉は「ほととぎす 鳴き鳴き飛ぶぞ いそがわし」。門人の白雄は「人の知る 曽我中村や 青嵐」 その後 蕪村も「雨ほろほろ曽我中村の田植かな」と詠んだ。
 この、六本松の地名となった最後の松の大樹は、明治の終わり頃惜しくも長い一生を終わっている。
(案内板より)

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⑥<見晴台>

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▼風景1
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▼風景2
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▼風景3
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<下久保の道祖神ほか石造物群>

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下久保の道祖神ほか石造物群
ここには次の石造物が見られます
○道祖神
小田原市内で最も多く見られる浮き彫り双立像です。この像は僧形となっています。
○地神講碑
この碑は弘化三年(1846)造立で、中央に天社神と彫られています。
この地の地神講の人々が建てたものです。
○題目塔
中央に南無妙法蓮華経と彫られています。
安政五年(1858)この地にコレラが流行したとき、法華経一千部を奉唱して、病気退散を祈りました。
老人や子供までもが、昼も夜も、題目を唱えたことが碑文に読まれています。
小田原市教育委員会
(案内板より)

⑦<別所梅林>

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かながわの景勝50選地
曽我の梅林(曽我別所梅林)
 曽我の梅林は、曽我別所梅林、中河原梅林、曽我原梅林からなり、その規模は、およそ90ヘクタール、三万本の白梅が植えられており小田原梅の産地であります。
 主な栽培品種としては、白加賀(梅酒用)、杉田(梅酒梅干兼用)、十郎(梅干用)であり、毎年六月から七月初旬にかけて約600~650トンの生梅が収穫されます。
 また、この地から見る富士山、箱根連山、丹沢山塊、相模湾等の眺めもすばらしく、景勝の点でも優れています。
 このように曽我の梅林は、その規模、景勝の点で関東屈指の梅林として知られております。
(案内板より)

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⑧<原梅林>

【おすすめ】★★★
メイン会場。2/11に開催予定ながら荒天のため延期となっていた
「流鏑馬神事」が13:00から開催されるということで、
準備がすすめられていました。
▼小田原北條太鼓の会の演奏風景
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▼流鏑馬会場
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⑨<ゴール:JR下曽我駅>

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―――せっかくなので、中河原梅林にも足を伸ばしてみました―――

<中河原梅林>

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■おまけ

<おまけ1:駅前銅像>

長谷川豊吉氏(1852~1923)は、明治時代の衆議院議員で、下曽我駅の設置
に尽力された方ということです。(自民党・河野洋平元衆議院議員の親戚)
▼長谷川豊吉翁之像
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<おまけ2:駅前モニュメント>

下曽我駅ホームから見える包帯姿の謎の物体。
▼COMANOGOTOKU
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作:上別府志郎
受賞:’90小田原城野外彫刻展 入選

空間に浮かんだこの人体は
地上からはるかに遠く
我々見る側からも手の届かぬほど
孤独である
しかし彼女は悲しいのではない
二つの独楽で均衡を保ちながら
永遠に存在しているだけなのである
(91年)上別府志郎

<おまけ3:中河原梅林の水道>

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■コースマップ

本日のコースは以下の通りです

より大きな地図で 曽我 を表示