JR東日本主催の「駅からハイキング」(イベントコース)で
神奈川県横浜市保土ケ谷区を歩いてきました。
▼保土ヶ谷駅前のマンホール
■基本情報
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【主催】JR東日本・駅からハイキング(イベントコース)
【タイトル】東海道保土ヶ谷宿 駅伝花の2区・松の9区「権太坂」を歩く
【距離】約8km
【分類】文化歴史、ほとんど平坦
【地図】 GoogleMap
【通過ポイント】
▶スタート:JR保土ヶ谷駅
①本陣跡
②松並木プロムナード
③国道1号権太坂
④境木地蔵尊
⑤旧東海道権太坂
⑥今井川プロムナード
⑦助郷会所跡
▶ゴール:JR保土ヶ谷駅
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■保土ケ谷といえば
・江戸時代、東海道の往来で栄えた宿場町
・箱根駅伝の見どころ・権太坂
・保土ケ谷駅の駅ビルはアーバン
■ウォーキングの記録
▽<スタート:JR保土ケ谷駅>
改札を出て東口方面の駅通路にて受付。
バッジとマップをいただき、黄緑のカードリーダーボックスに「会員証」をピッと。
今回のウォーキングのテーマは「東海道保土ケ谷宿」と「箱根駅伝コース」です。
<東口バスターミナル>
――0.5km歩く――
▽ ①<本陣跡>
【所在地】神奈川県横浜市保土ケ谷町1-68本陣は、江戸時代、参勤交代の大名や幕府の役人、公家などが宿泊した宿泊施設。
ここには、保土ケ谷宿唯一の本陣・苅部本陣がありました。
石碑には以下のとおり書いてあります。
保土ヶ谷宿本陣跡 (1601~1870) 江戸時代に幕府が諸大名に参勤交代をさせる ため東海道五十三次の宿場毎に本陣を置いた もの横浜開港東京遷都の頃までありました 1965 横浜市長 飛鳥田一雄記 |
【概要】
歴史の道 本陣跡 慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より 東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。 本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。 平成15年3月 保土ケ谷区役所 |
<脇本陣(水屋)跡>
現在の保土ケ谷消防署本陣消防出張所のあたり。
【概要】
歴史の道 脇本陣(水屋)跡 天保年間の水屋(与右衛門)の規模 建坪128坪(約423㎡)間口8間(約14.5m)奥行き16間(約29m)室数14 玄関門構付 (標柱より) |
<旅籠屋(本金子屋)跡>
【所在地】神奈川県横浜市保土ケ谷区保土ケ谷町1-84
旅籠屋は江戸時代の一般旅人向け宿泊施設で、天保年間には69軒ほど存在したそうです。
ここ旅籠屋(本金子屋)跡は、「保土ケ谷宿・まちかど博物館」として外観のみ公開されており、
現在も所有者の方がお住まいになっています。
【概要】
歴史の道 旅籠屋(本金子屋)跡 天保年間の本金子屋(伝左衛門)の規模 建坪79坪(約261㎡)間口7間(約12.7m)奥行き11間半(約20.9m)室数13 (標柱より) |
ほ・まちかど博物館 旅籠 本金子屋跡 ■本金子屋の歴史■ 本金子屋は、江戸時代に旅籠として栄えました。 過去に国道1号が7mほど拡幅される前は、現在の母屋の前に大名門と前庭がありました。 敷地内には本格的な日本庭園(非公開)があります。 (案内板より) |
<外川神社(とがわじんじゃ)>
【所在地】神奈川県横浜市保土ケ谷区瀬戸ケ谷町194【概要】
外川神社の由来 外川神社は、保土ケ谷宿内の羽州湯殿山の講中の先達であった清宮與一が、 明治初年、神仏分離令の発布によつて祭神を日本武尊とし、外川神社と改称しました。 そして平成六年九月十三日、今井川河川改修工事にともない無格社外川神社は 平成九年十二月吉日 |
外川神社&保土ケ谷町会館前に、お休み処が設けられていました。
テントには、「保土ケ谷町自治会」の文字。100円でけんちん汁が振る舞われていました。
今井川を渡ってすぐそばに、一里塚跡がありました。
<一里塚跡・上方見附跡>
【概要】
歴史の道・一里塚跡 街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。 上方見附跡(かみがたみつけあと) 平成15年3月 保土ケ谷区役所 |
▽②<松並木プロムナード>
東海道の松並木復元事業により植えられた松並木。
まだまだ、細い木ですが、いつの時代か、三保の松原のように大きな木になるかも知れません。
東海道保土ケ谷宿の松並木と一里塚 <保土ケ谷宿の松並木> 我が国に於ける街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、 保土ケ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3kmあまり続き、 このたびの松並木復元事業では、「上方の松原」と呼ばれていた <保土ケ谷宿の一里塚> 保土ケ谷宿の一里塚は日本橋から八番目に位置し、 この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような 平成19年3月 東海道保土ケ谷宿松並木プロムナード実行委員会 横浜市保土ケ谷区役所 |
――1.5km歩く――
▽③<国道1号権太坂>
国道1号権太坂は、箱根駅伝の花の2区、松の9区で有名なポイント。
中でも2区は箱根駅伝で2番目に長い区間で、各校エース級を揃える区間。
スタートから最初の上り勾配となる権太坂は、毎年最初のドラマが起こる場所です。
▼権太坂上
――権太坂上の権太坂スクエア前でウォーキングコースは右折――
<境木立場跡>
東海道の旅の休息所・茶屋の跡です。周囲には建物が多く、当時の素晴らしい眺望はありません。
歴史の道 境木立場跡(さかいぎたてばあと) 立場茶屋(たてばぢゃや) 宿場と宿場の間に、馬子(まご)や人足(にんそく)の休息のためなどに 平成16年3月 保土ヶ谷区役所 (史跡案内板より) |
▽④<境木地蔵尊>[Check Point]
【所在地】神奈川県横浜市保土ケ谷区境木本町2-17
【指定】横浜市地域史跡
保土ヶ谷観光名所・境木地蔵由来 ここ境木は武蔵相模の国境で江戸時代にはそのしるしが立てられていて また境木は東海道中の難所であった権太坂を登りきった所にあり なおこの地蔵には次のような珍しい伝承があります 即ちいつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が 地蔵堂の鐘は明治になって野毛山の時の鐘に使用され 平成元年十月四日 岩間町見光寺 (石碑より) |
保土ケ谷宿の物産の販売、地元ガイドボランティアによる歴史ガイドが実施されていました。
――境木地蔵尊で折り返して1.4km歩く――
▽⑤<旧東海道権太坂>
【指定】横浜市地域史跡
東海道五十三次の江戸から上方に向かう最初の難所といわれた坂です。
▼権太坂を下る
天候が良ければ坂の上から富士山が望めるビューポイントということでしたが、
曇り空で見えませんでした・・・残念。
▼権太坂小学校前
権太坂はかつては今より勾配もきつい相当な急坂で その1「老人の返事」説 昔、権左衛門(ごんざえもん)という人が代官の指図(さしず)により さて、あなたはどちらを信じますか? (調査協力/権太坂小学校 平成15年度卒業生) 平成16年3月 保土ケ谷区役所 (史跡案内板より) |
▼権太坂の標柱
▼権太坂改修記念碑
「旧東海道権太坂 改修記念碑 横浜市長平沼亮三書」
――0.8km歩く――
▽⑥<今井川プロムナード>
――1.6km歩く――
▽⑦<助郷会所跡(北川製粉所前)>
助郷会所跡(北川製粉所前)のスペースが休憩所になっていました。
歴史の道 助郷会所跡 助郷村々の人馬を手配するため設けられたのが助郷会所です。 (標柱より) |
▼宿場模型の展示
「小学六年生と地域の人が作った江戸時代の保土ケ谷宿の家並み」
「総合学習」の授業で作成したものでしょうか?
権太坂の案内板もそうですが、小学生時代に調べたり、作ったものが、
その後も地域に何らかの形で残っていくのって、ちょっと羨ましいですね。
▼休憩所
甘酒の提供と、300円でそばが振舞われていました。
助郷会所跡でちょっぴりプレゼントをいただきました。
「東海道五拾三次の絵と手ぬぐい」(読売新聞を購読しているといただけるもの)。
使い方はとっさには思いつきませんが、どこかで使えそうです。
ちなみに、なぜ読売新聞さんかといえば、「ワイワイ(Y2)サポートプロジェクト」と題して、
横浜市と読売センターが業務提携している事情のようですねー。
▼手ぬぐい(折りたたんだ状態)
――ラスト0.3km歩く――
▽<ゴール:JR保土ケ谷駅・西口>
ゴールはJR保土ケ谷駅・西口の階段下。
ちょっと肌寒かったですが、適度な距離でいいウォーキングでした。
■コースマップ
本日のコースは以下の通りです。
より大きな地図で 保土ケ谷 を表示
■まとめ
今回、いちばん、印象的だったのが、係員の方々。
ウォーキングイベントは、受付、路上の安全確保など、ボランティアの方々の協力で成立しています。
今回の保土ケ谷のウォーキングでは、交通量に対して道が狭い箇所が多いこともありウォーカーの誘導、
また、休憩所の運営、歴史ガイドなど、非常に多くの方々が業務にあたられていました。
休日を返上し地域をあげて私たちウォーカーの為に動いていただき、保土ケ谷の方に大変感謝です!!